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その1 上久我の板碑


上久我には板碑が七基出土している。
板碑とは石製塔婆のことで、鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた。 一般に、埼玉県秩父地方を原産とする青石を使用する。 秩父からの距離に反比例して、その数は少なくなり、当地方が青石板碑分布の限界である。このことは、豪族でないと、 板碑を使用できない地域であることを意味する。
 その年号は、正和元年(1312年)から、文明12年(1480年)にわたり、約170年間、豪族が定住していたことも意味する。 また、同所から古瀬戸の瓶子(へいし)も出土している。淡黄緑色で、高さ29cmのものである。 日本の陶磁器生産は、鎌倉時代に、愛知県瀬戸において発展し、古瀬戸といわれた。瀬戸から遠く離れた当地方では貴重品で、 一般人には手に入らないものであった。
 さらに、その近くに、久我城と称する中世の城跡がある。今も塁(土手)や堀を巡らし、当時の面影を残している。 そのほか、久我城主とされる久我氏に関する伝説など、久我には豪族が、長い間、定住していたとみなされる裏付けに、事欠かない。
 鎌倉時代に、旧鹿沼をふくめ、西部山地一帯は、佐野の唐沢山に本拠を置く佐野氏の勢力権に入っていた。 また、一部は、日光山の神領として、後世まで「日光神領鹿沼六十六郷」と、口称されてきた。
さらに、東方には、下野の中央に一大勢力を持つ宇都宮氏がいて、鹿沼市東部台地一帯が、その影響下にあった。 このような状態のもとに、鹿沼地方は、南北朝時代を経て、室町時代へと推移していった。 その間にあって、久我氏のような小豪族が、各地に発生していったのである。

 鹿沼市内にお住まいで鹿沼市文化財保護審議会会長、鹿沼史談会長等を歴任された、故柳田芳男 (平成15年に勳六等単光旭日賞を受章)さんの執筆により、昭和50年に出版された「郷土の歴史」から抜粋させていただきました。



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