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その2 村々の成立天正18年(1590年)、日光から壬生にかけて勢威を誇った、鹿沼城主壬生氏の滅亡を境にして、 その家臣や近辺の土豪たちは帰農していった。 一方、天下統一の過程にあった豊臣秀吉は、一円知行、すなわち一定の土地を完全に支配することから、 検地を実施した。 鹿沼近辺は文録3年(1594年)の太閤検地を中心として実施された。その一例として同年の下南摩村の 検地帳を見ると、大膳、兵庫、淡路、主税助、大学など、百姓らしからぬ名前を見ることが出来る。 このことは、当地の豪族南摩氏の家臣が、前記したように帰農したことを意味していると考えられる。 加蘇地区には久我十七騎といわれている旧家がある。当地の豪族久賀七郎兵衛尉行春の旧臣といわれ、 中里、大橋、青柳、池田、神山、小林、岩崎、大貫、吉村、須永、小曽根、吉河、湯沢、福田、田辺、 影山、森がその姓で、上久我、下久我、加園に帰農していったと見られる。 このような豪族の家臣や土豪たちは、検地により土地に定着させられ、村をかたちづくっていた。 ここではじめて行政組織としての村が生まれたわけである。そして支配者側から、それらのものは名主 などの村役人として任命され、村支配の一翼をになわせられた。 中世において、すでに村落共同体ができ、そのまま近世の村として継続した村も多い。 それには神社の氏子組織である宮座を中心としている例が多い。 板荷の山王大権現(現日枝神社)の宮座の上席は、渡部、渡辺、木村、江田、福田、大貫の八家で 構成している。真偽のほどはさておき、延文2年(1357年)という古さと、強固な宮座組織は、当地方 最大の村として、近世の板荷村をつくりあげた。そして宮座上席のものが村役となっている。 酒野谷の両大門家は壬生氏の一族であるが帰農して名主の家柄として続いたほか、下酒野谷の稲荷神社 の宮座で最上席を占めている。宮座の始まりが文録4年(1595年)といわれ、酒野谷村の成立とかかわり あるのではないかと思われる。 鹿沼市内にお住まいで鹿沼市文化財保護審議会会長、鹿沼史談会長等を歴任された、故柳田芳男 (平成15年に勳六等単光旭日賞を受章)さんの執筆により、昭和50年に出版された「郷土の歴史」から抜粋させていただきました。 |