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その3 野尻騒動江戸時代も後期になると、関東から東海道にかけて博徒や無宿が横行するようになり、 幕府はその取締りに手をやいた。というのは、支配者が異なると警察権の行使が容易で なく、そのため無宿は罪を犯すと他領に逃げ込んだ。 ことに天領や数多くの大名・旗本・寺社領が複雑に入り組んだ関東一円は、幕府の おひざ元でもあり、強力な農村取締機構の一元化が求められた。 こうして幕府は文化2年(1805年)に関東取締出役、通称八州廻りを新設し、水戸藩 と日光神領を除く関東一円を巡回し取締にあたらせた。そして、その警察活動を補強す るため、文政10年(1827年)に寄場組合の結成を含め、従来の法令を集大成した長文 の蝕書を発している。 各村は中心村(宿場)の寄場役所を通して関東取締出役に直結させられた。鹿沼宿組 合は27カ村、楡木・奈佐原宿組合は29カ村で成立している。これが文政の改革であ る。 農村の治安維持を第一義としたこの改革は、鹿沼地方に意外な波紋をまきおこした。 野尻騒動がそれである。 野尻村は石裂みち(奈佐原宿ー酒野谷ー野尻ー加園ー久我石裂神社)と、出流みち( 鹿沼宿ー花岡ー酒野谷ー野尻ー上南摩ー粟野ー出流観音)との交差点にあたる交通の要 衝であった。しかし、大芦川にたび重なる出水に、酒野谷・野尻間の橋はその都度流失 し、その度河には難渋していた。安政5年(1858年)には野尻村など8カ村が主体とな り、大規模に橋を架けた。それも翌6年の大洪水で流され、村人は架橋への熱意を失っ てしまった。 この時、野尻村名主石川多市は橋供養と村人に架橋への意欲を促すため、芝居興行を 催すことになった。文政の改革以来、在方の芝居は堅く禁止されている時にである。強 行した芝居は、出役の手先13人の手入れをうけ、大乱闘となり、手先に傷を負わせて 追払ってしまった。出役広瀬鐘平は3百余人を率い、宇都宮戸田藩士50余人を控えに して出向し、逮捕者のうち102人を江戸送りとした。 翌万延元年に判決が下された。死罪1、遠島4、重追放4、中追放25名などの重罪 が科せられたが、取調べがきびしくて、17名が判決前に獄死してしまった。安政の大 獄で世は騒然としていた。 鹿沼市内にお住まいで鹿沼市文化財保護審議会会長、鹿沼史談会長等を歴任された、故柳田芳男 (平成15年に勳六等単光旭日賞を受章)さんの執筆により、昭和50年に出版された「郷土の歴史」から抜粋させていただきました。 |