2011〜2016            へ戻る 
NO 2
 啄木は民族の危機に際し、学問と芸術の危機に際して、我々が思い起こすべき国民詩人の一人である。

 啄木の時代において、国家に無関心であることによって近代的自我を確立しようとし、そのた めに、祖国と民族を喪失し、国家の強権を存続させ、自ら絶望へと深まってゆく傾向を啄木は指摘している。   
              石母田 正 「続・歴史と民族の発見」より
2016

NO 1
* 終わらない戦争  石田 孝 倉敷市 (世界2016.2 読者談話室より))

 遠い地でどんなに激しい戦闘が繰り返されていようが、人々が戦争を実感するのは自分の住む地域に火の手が上がってからなのだ。いま日本を取り巻く空気はまさにそれではないだろうか。知らないうちに戦争は始まっていく。

 年頭の詩 (2016) 小林守城

    いまさら生き急ぐこともあるまい。
    古希過ぎてはや怖れるものはない。
    老いた感性はとがらせて交り合うために出てゆくことだ。
    冬の街頭に咲く花だってある。
    
    久しぶりに見たよ
    立憲民主主義  若いシールズ !
    いのちのつらなりへ
    一人ひとりの言葉で
    
* シールズ  STUDENT EMERGENCY ACTION FOR LIBERAL DEMOCRACY,S
NO 11 石川啄木 弓町より  「食ふべき詩」
 「食ふべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食ふべきビール」といふ言葉から思ひついて、仮に名づけたまでである。 謂う心は、両足を地面に付けていて歌ふ詩ということである。実人生となんらの間隔なき心持を以て歌ふ詩ということである。珍味乃至はご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に「必要」な詩という事である。

 私は詩人という特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差し支えないが、その当人が自分が詩人であると思っては可けない。・・・そう思ふことによってその人の書く詩は堕落する。我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通の人の有ってゐる凡ての物を有ってゐるところの人でなければならぬ。・・・すべて詩のために詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。

 真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとするに政治家のごとき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、さうして常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き率直なる態度を以て、自己の心に起り来る時々刻々変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。

 我々の要求する詩は、現在の日本語を用ひ、現在の日本を了解しているところの日本人に依て歌われた詩でなければならぬといふ事である。
NO 10  「定本現代俳句」 山本健吉 より
    鶏頭の14・5本もありぬべし  子規

 名句があやうきに遊ぶとは、すべて傑作は精神の冒険の上に摘み取られた崖上の花であるということである。賭けられたものは生命なのだ。そのような創造の機微がすべての鑑賞者に誤りなくとらえられるはずもあるまいが、そのことはまた、誤解される危険なくして芸術上の傑作が存在しえないことでもある。              
NO 9 高田太郎詩集「肥後の守少年記」より

それが研ぎ澄まされ
凶器となるときもあろう
満々と水を湛えた川に
野放図に遊弋する異国の雷魚
その銀鱗を裂いて
ぼくは大人になるはずだったが
その儀式は未だに来ない     「白鷺」より」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肥後の守のブレードの積年の錆が
哀しく老いの口を染めたが
あの娘さんの血がどんな味がしたか覚えていない
共に血を分け合った戦友肥後の守
別盃はまだ先の先だ
     「肥後の守賛歌」より
 
NO 8     茨木のり子 詩集より 

 * いまなお <私> を生きることのない
    この国の若者のひとつの顔が 
    そこに 火をはらんだまま凍つている 
      対話 「魂」より 
 * 人々は怒りの火薬をしめらせてはならない
    まことに自己の名において立つ日のために

                             対話 「内部からくさる桃」より
NO 7    金子光晴 「女たちへのエレジー」より

 <僕は長年のあいだ、洗面器といううつはは、僕たちが顔や手を洗うのに湯、水を入れるものとばかり思っていた。ところが、爪哇人たちはそれに羊や魚や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待っているし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。>
     洗面器

   洗面器のなかの
   さびしい音よ。

   くれてゆく岬(タンジョン)の
   雨の碇泊(とまり)。
 
   ゆれて、
   傾いて、
   疲れたこころに
   いつまでもはなれぬひびきよ。

   人の生のつづくかぎり。
   耳よ。おぬしは聴くべし。

   洗面器のなかの
   音のさびしさを。

NO 6   河上 肇  昭和20年5月4日

      生死は自然に任せむ

 多少波瀾
    
 六十七年

 浮沈得失

 任衆目憐

 俯不耻地

 仰無愧天

 病臥及久

 気漸担然

 已超生死

 又不繋船
NO 5          洪允淑 (ホンユンスク) 茨木のり子 訳
                                    韓国現代詩選 より
           生きる法

         ごらんなさい 
         わたしたちが出発したその日から
         燃えさかる炭火のような山河を素足で歩いてきた
         四十年の荒野
         いまだカナンの外の暗さだけれど
         エリゴの城の外をめぐっているけれど
         時が来れば松の榾(ほた)に油をそそぎ
         ひとつながりの松明(たいまつ)で道を明るく
         かがやく額で 靴の紐を結ぶ
         胸に黄金いろのボタン きらきら輝く火をかざし
         野いばらの蔓で腰をしばり
         風吹く野に 長い棒竿のように突っ立って
         一時代の暗さを突きくずすのです
         両手に大きな大きな夜を共に抱きましょう
         いたるところでわたしたちの言語は光そのものでした

            * カナン  パレスチナの古都、ヨルダン川西域の聖書にある地名、楽土。
            * エリゴの城  楽土に入るために占領しなければならない敵の城塞。
NO 4   2015.3.13   朝日新聞 オピニオン「対立の海で」より
  目取真 俊 (沖縄出身、小説家・芥川賞「水滴」)
  インタビュー記事

・・・沖縄の民意を無視し、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた
海底ボーリング調査再開し強行している安倍政権にカヌーで抗議している。
・・・
 
* ヤマトゥ離れの意識が、この2〜3年で急速に広がっています。
もっと自治権を高めていかないと二進も三進もいかない、という自立に
向けた大きなうねりが、いま沖縄で起きている。辺野古の海の抗議活動は、
この地殻変動の一つの表れなんです。

* 安倍首相が沖縄県民の代表である翁長知事に会うことすら拒んでいるのは、
権力による形を変えた暴力です。暴力が横行する事態を避けるため築いてきた
民主主義というルールを、今政権が自らの手で壊している。そして、憎悪と怒りを
沖縄じゅうにばらまいています。

* 抗議活動に参加する人々は非暴力で一致しています。それが運動を広げ、
支える原理ですから。怖いのは、そうした場に参加もせず、鬱屈した感情を内に
抱え込んだ孤独なオオカミの暴発です。

* もし力で押し切れば、沖縄との関係も、この国の民主主義も、致命的な
打撃を受けるだろう。
NO 3    谷川 雁  「原点が存在する」より

 詩が来らんとする世界の前衛的形象であるかぎり、その証明は詩人の血を
持って明らかにせねばならぬ。 
 詩人とは何か。
 まだ決定的な姿をとらず不確定ではあるが、やがて人々の前に巨大な力と
なってあらわれ、その軌道にひとりびとりを微妙にもとらえ、いつかその人の本質
そのものと化してしまう根源的勢力・・・・・花々や枝や葉を規定する最初の
そして最後のエネルギー・・・・・をその出現に先んじて、その萌芽、その胎児
のうちに人々をして知覚せしめ、これに対処すべき心情の基礎を与える人間
ではないか。やがて支配的となるにちがいない新しい心情の発見者、
それが詩人だ。
 このよう人間が保守的な世界に一票を投ずる可能性があると考えることは
二重に困難なことである。第一に古くなってしまった力は根元的ではありえない。
第二に根元的でないものは創造的ではない。だから進歩的なものに「尾をふる」
者は---詩人ではない、ということも成り立つ。・・・・・私の第一問はこうである。
汝、尾をふらざるか。
 NO 2   茨木のり子 詩集「寸志」より
  
落ちこぼれ

 落ちこぼれ 和菓子の名につけたいようなやさしさ
 落ちこぼれ いまは自嘲や出来損ないの謂い
 落ちこぼれないための ばかばかしくも切ない修業
 落ちこぼれにこそ 魅力も風合いも薫るのに
 落ちこぼれの実 いっぱい包容できるのが大地
 それならお前が落ちこぼれろ 
 はい 女としてはとっくに落ちこぼれ
 落ちこぼれずに旨げに成って
 むざむざ食われて成るものか
 落ちこぼれ 結果ではなく
 落ちこぼれ 華々しい意志であれ
2015
 NO 1
 
茨木のり子
 「詩のこころを読む」より

いい詩には、人の心を解き放してくれる力があります。
また、生きとし生けるものへのいとおしみの感情をやさしく誘い出してもくれます。
どこの国でも詩は、その国のことばの花々です
 
2014
NO 9 
Viktor Emil Frankl ヴィクトール・フランクル (1905〜1997 オーストリア) より
ロゴセラピーを創始した心理学者・精神科医。
アウシュヴィッツ強制収容所体験「夜と霧」の作者。

 ひたひたと押し寄せてくる、慢性的な空虚感から目を逸らしてはならない。
 我を忘れて誰かのために何かを行う。そのことで初めて人間は真の自分を発見 するのだ。
 たとえ一瞬でも、どれだけ精神の高みに昇ることができたかによって人生の価 値は決まる。
 愛は、人間の実存が高く昇りうる最高のものである。
 人生の意味を疑うのは、その人の高い精神性の証である。
 あなたを待っている「何か」がある。
    あなたを待っている「誰か」がいる。
 「幸福を追い求める生き方」を「人生からの問いかけに応える生き方」に転換せよ。
 「変えられない運命」に対してどのような態度をとるかで人生の価値は決まる。
 絶望の果てにこそ、暗闇の中に一条の希望の光が届けられてくる。
 NO 8
妻に            吉野弘

生まれることも
死ぬことも
人間への何かの遠い復讐かもしれない
と嵯峨さんはしたためた

確かにそれゆえ、男と女は
その復讐が永続するための
一組の罠というほかない

私は、しかし
妻に重さがあると知って驚いた若い日の
甘味な困惑の中を今もさ迷う

多分、と私は思う
遠い復讐とは別の起源をもつ
遠い餞があったのだと、そして
女の身体に託され、男の心に重さを加える
不可思議な慈しみのようなものを
眠っている妻の傍らでもて余したりする
NO 7
 
    イルカ                         川崎 洋

 イルカは
 もと陸上に住んでいたが
 5千万年ほど前に 海へ帰っていった生物だと聞いた
 会話音の基本型は75  日本語のアイウエオより多い
 上は300キロヘルツくらいの音を出す  ひとは16か17くらい
 チンパンジーより段違いに秀れた頭脳を持つ
 秀れたというのは  ヒト側に立った計測の表現だが
 海のなかでは 口をあけて泳いでいるだけで エサが入ってくる
 だから彼らは
 ヒトが衣食住に苦労し努力するような
 そんなあがきとは無関係に暮らしてきた
 もしイルカが陸上にとどまり 衣食住に努力していたら
 ヒトは
 これほどには栄えなかっただろうという
 いま彼らは海で ふざけたり遊んだり
 そのほかにすることがない
 ただそれだけの話  めでたしめでたし
 NO 6          斎藤茂吉 「死にたまふ母」より

 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞいそぐなりけれ
 吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり
 寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば
 死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
 死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
 母が目をしまし離れきて目守りたりあな悲しもよ蚕のねむり
 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
 ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり
 葬り道すかんぽの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや
 わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
 星のゐる夜空のもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
 灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり
 蕗の葉に丁寧に集めし骨くずもみな骨瓶に入れ仕舞ひけり
 どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば
 笹はらをただかき分けて行きゆけど母を尋ねんわれならなくに
 火の山の麓にいづる酸の温泉に一夜ひたりてかなしみにけり
 はるけくも峡のやまに燃ゆる火のくれなゐと我が母と悲しき
 遠天を流らふ雲にたまきはる命は無しと云へばかなしき
 山ゆえに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ
 NO 5      遡る鱒は       高野喜久雄

  遡る鱒は びくの中
  しかしなお 私は遡るものでありたい
  鱒のように
  しかし 私は 焔そのものを産みにゆく
  鱒のように 
  しかし私は 私のみなもとを指してゆく
  物らを
  在るがままの物らとして許さない
  言葉を
  在るがままの言葉として許さないみなもとへ
  私が持ち帰らねばならないものは 私の焔
  
あくまで 私の焔だ
  焼き払い
  あとかたもなく焼き払い
  そして私は そこからはじめる

 * くやしまむ言も絶えたり炉のなかに
                 炎のあそぶ冬のゆうぐれ 
     
斎藤茂吉(「小園」より)
NO 4     春しずか   まど・みちお
 
 風鈴に 留守を たのんで
 海を さがしに 風は出ている。

 窓、障子、部屋の明るさ
 蜂は 小さな 地震 させてる。
 
 午睡から さめた子供に
 遠い ラジオが ヒット 打ってる。
 
 金魚やは ひとり ひょろひょろ
 入道雲の 中を 通ってる。

 とろとろと 庭の 日南に
 松葉ぼたんは えのぐ といてる。

 桃樹の下 蝉の 棺を
 西へ うねうね 蟻はひいてる。
 NO 3   
 同類  脳も胸も、その図らいも 凶器の隠し場所
     心に耳を押し当てよ 聞くに堪えないことばかり
     忌むべきものの第一は 己が己がと言う心
     若いほうへと 気も向くさ
     人の為とは偽りさ 荀子「性悪編」に曰く
       「人の性は悪、その善なるは偽りなり」と
       人為を施した為人(ひととなり)は偽りということか
 虻・虹  虻の翅に仄めく虹 誰の工(たくみ)しものか
 対決   馬と蚤との対決 騒然!
                      吉野弘 「漢字遊び」より
NO 2

一つの悲しみが万の喜びよりも重いということを知るまでは、

われわれがキリスト教の求めるものになることはありえないのだ。

       ハーマン・メルヴィル 「マーディ」より
2014
NO 1

  生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)


 
生死の中の雪ふりしきる       山頭火
 
 2013
NO 15
  戦争の結果責任には無罪はない。もちろん、賛同したものは結果責任
を問われる。しかし、戦争に賛成したわけではないという者も、戦争反対
への行動をとらなかったという不作為の責任が問われる。さらに戦争反対の
行動を起こした者でさえ、戦争を阻止できなかった以上、自己の無力は
結果責任を逃れる弁明とはならないことを肝に銘じる必要がある。
この戦争責任の論理は、歴史における状況責任のすべてに妥当する
ように思える。
金子さんと私は「失われた10年」が「失われた20年」へと危機が深刻化していく頃から、危機を
克服する導き星となることを願い、共同で政策提言を積み重ねてきた。しかし、危機が深刻化し、
「失われた20年」を阻止できなかった以上、私たち二人も甘んじて現状の危機への結果責任を引き
受けざるをえまい。
(失われた20年という状況への事後責任を引き受けるということは、「失われた30年」という未来への
状況を逆転する事前責任を果たすことだということになる。そうした使命を果たすため、残された力を振
り絞って「逆転への最後の提言」を思い立ったのである。)


「失われた30年」・・・逆転への最後の提言・・・金子勝・神野直彦 NHK出版新書 あとがきより
 NO 14   核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう

 森滝市郎
 1975年 被爆30周年原水爆禁止世界大会
NO 13   宮沢賢治の文語定型詩は、詩としての詩を完成させることであり、
一つの生の断念の様式であった。詩の彼方の詩を賢治は求め続けてきた。
それが地上の実践であった。それが破綻しそこで倒れた。そして文語定型詩
の完成が残された。
 

 見田宗介「宮沢賢治・・・存在の祭りの中へ・・・」より
NO 12    農民芸術概論綱要・序論 宮沢賢治

 
・・われらはいっしょにこれから何を論ずるか・・

 おれたちはみな農民である。 ずゐぶん忙しく仕事もつらい 。 
もっと明るく生き生きと生活をする道を見つけたい 。 われらの古い師父たちの中には
さういふ人も応々あった 。 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の
一致において論じたい。 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
あり得ない。 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。 
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか。 新たな時代は世界が一の
意識になり生物となる方向にある。 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に
意識してこれに応じて行くことである。 われらは世界のまことの幸福を索ねよう。
 求道すでに道である。
 NO 11   宮沢賢治 「春と修羅」より

   
 (正午の管楽よりもしげく 
     琥珀のかけらがそそぐとき)
   いかりのにがさまた青さ 
  四月の気層のひかりの底を
 唾しはぎしりゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (かげろふの波と白い偏光)
   まことのことばはうしなはれ
  雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
     はぎしり燃えてゆききする
       おれはひとりの修羅なのだ


 NO 10   信心を捨て、そこにこぼれ落ちるリアリティに向き合わなければ
ならない。 希望はその線分の延長にのみ存在する。


  フクシマ論」より 開沼博著 青土社 毎日出版文化賞受賞
 被害の中心から遠い人ほど、被害の真実に自らの想像力を
及ぼそうと努めねばならず、被害の中心に近い人々ほど勇気を持って
苛酷な真実を直視しなければならない。ひどく困難なことだが、
目の前で起きている事態がそのことを私たちに要求している。
私たちの想像力が試されているのだ。(同心円の
パラドクス)

  「フクシマを歩いて」
より 徐京植著 毎日新聞社
     ・・・ディアスポラ(離散者)の眼から・・
* 人間は、人間が存在することの意味を、他とのかかわりの中で
問うてゆく存在です。人間とは何か。それに対する答えは、我々が普遍を探る
、自らの思索と行動の中にこそあるのです。(人間は137億年の時空の中で
普遍を探り、存在の意味を問い続ける。)

 「我関わる、ゆえに我あり」ー地球システム論と文明 より
     松井孝典 集英社新書
NO 9   理不尽なのは大震災、大津波、原発メルトダウン、放射能汚染そのものだけではない。それらの意味と歴史的位置、悲劇の深度を表すべき言葉がテクノロジーの進化に反比例して退化し、貧弱化していることも現代人の大いなる逆説であり、それが言葉を用いるわれわれ人間の心を阻害していることだ。
* 福島の悲劇は、出来事そのものにあるとともに、出来事にまだすぐれた言葉があてがわれていないことだ。
* 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならない。
   (石原吉郎)
 人は死において数であるとき、それは絶望そのものである。(辺見)
 単独者は、ただ単独者として、無害な詩などをつぶやきつつ、隠棲していればそれでいいのか。単独者はつまるところ、思い出のみに生き、自他と戦わずこの期に及んで、無傷でいればいいのか。

辺見庸 「瓦礫の中から言葉を」・・・私の<死者>へ・・・より
 NO 8   谷川 雁 詩文集 「原点が存在する」 講談社文芸文庫

 日本の民衆の大部分は農民の出身である。だから、日本の文明をおおっているのは、
農民の感情である。農民は労働者階級をはじめすべての勤労階級に対して、母親としての
地位を主張することができる。


 裏切られた農民の知的復讐こそ現代文学の背景である
 
NO 7  * アリストテレスの哲学の思索の動機が驚異にあり、デカルトのそれが
懐疑にあり、キルケゴールが絶望から出発したように、西田哲学の思索の
主導的モチーフは、悲哀であったと言いうるであろう


  鈴木亨「西田幾多郎の世界」より
 NO 6    かつて寺田虎彦は「俳諧の本質を説くことは、日本の詩全体の本質を
説くことであり、やがてはまた日本人の宗教と哲学をも説くことになるで
あろう」(「俳諧の本質的概論」)と断じた。俳諧という極小の詩を、
日本の詩全体ないし日本人の精神文化を代表するものにまで高めたのは、
いうまでもなく芭蕉である


芭蕉ハンドブック」序文より 尾形仂 編 三省堂
 NO 5  * 雪は天から送られた手紙である 中谷宇吉郎

   
随想集「冬の華」より

* 
中谷にささぐ・・・中谷静子

  天からの君が便りを手にとりて
             よむすべもなき春の淡雪
 NO 4    吉本隆明 「親鸞論」より

 阿弥陀如来の四十八誓願のうち第十八願にいう、心の底から阿弥陀如来を信じて
、名号を十ぺんでも生涯のうちに唱えるならば、正定聚の位につき、必ず浄土に行くと、
親鸞は到達した。(難思議往生・教行信証)

 阿弥陀如来十八願
「もしわれ仏を得んに、十方の衆生,至心に信楽してわが国に生まれんとおもい。
乃至十念せん、もし生まれずば、正覚を取らじ。
 NO 3   松尾芭蕉

 * 風雅のまこととはなにか。ものとおのれが一つに溶けあうこと。
見かけの形にまどわされず、もののいのちに触れること。到るところは無我。
俳諧もまた、造化自然にしたがって
自由無碍の境に遊ばねばならない。 

 奥の細道は旅の紀行の体にして、次から次と旅日記風に書いたもので
はなくて、旅を終わってから、これを一遍の文学作品として創作風に書いた
ものである。始まりと終わりが、発端と終末が相照応している。


 行く春や鳥啼き魚の目は泪   (冒頭の二句目)
 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ  (最終句)

  荻原井泉水 「奥の細道ノート」より
 NO 2       金子兜太著 「わが戦後俳句史」 岩波新書より
 短歌俳句的な物の見方考え方が、日本人に近代的思考(社会との関連、
全体との関連において自己を考えること)をできなくさせている民族的弱さを
形成している。・・・茂吉は言う。現世の歌つくりは、つくづくとおのが悲しき
Wonneに住むがよい。(短歌写生の説)・・・これほど短歌の性格と運命を美しく
語った言葉をしらぬ。短歌はまさしくそうしたものだろう。しかし、そうした広汎な
現実の全体的追究から独立した抒情乃至花鳥風月的写生のごときは、
今日すでに生きた真実たりえないのではないだろうか。
・・・臼井吉見

 現代詩は、その抒情の科学に「批評」の錘を深く沈めていることによって
短歌や俳句の詩性と自ら区別される現代の歌であることを忘れてはならない。

・・・小野十三郎
 子規によって規定せられたふさわしい人間であり、虚子一門によって規定せられた、
花鳥諷詠流に歪められた人間であり、或いは、観念的にイデオロギーによって規定
せられた形式的な人間に過ぎなかった。明治以来の俳句には生きた人間の息づく場は
俳句の中にはなかった。・・・加藤楸邨「俳壇的人間存在」
 詩と詩でないものとの概念が成立するのは、詩と詩でないものとの
境界においてである。詩と詩でないものの間に生きている人間にとって、
彼を詩に駆り立てるものはむしろ、詩でないもの(吾々が生きている現実)
の中にあるのだ・・・鮎川信夫。

2013
NO 1
 
     種田山頭火の名句より

 * 松はみな枝垂れて南無観世音
 * 生死の中の雪降りしきる
 * 分け入っても分け入っても青い山
 * この旅、果てもないたびのつくつくぼうし
 * 焼き捨てて日記の灰のこれだけか
 * 鉄鉢の中へも霰
 * 笠へぽっとり椿だった
 * まったく雲がない笠をぬぎ
 * うしろすがたのしぐれてゆくか

 * 雨ふるふるさとはだしであるく
 * ふるさとの蟹の鋏の赤いこと
 * 梅干、病めば長い長い旅
 

 すぐれた俳句は、その作者の境涯を知らないでは充分に味わへないと思ふ。
前書きなしの句というものはないともいえる。その前書きとはその作者の生活である。
生活という前書きのない俳句はありえない。山頭火
 
2012
NO 15

  
 * 太陽は絶対に美しい。

* 絵の本当の美しさとは、描いた人間の生命力の強弱によるものと、
わたしは信じている。

* 戦争の本質への深い洞察も、夏の反戦運動も黒い屍体(原爆の被害者)
からではなく、赤い屍体(私刑にあい皮を剥がれた旧満州国日本人の屍体)
から生まれでなければならない。

* 戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難よりも、加害者にならなければなら
なかった者により大きいものがある。わたしにとって1945年はあの赤い屍体で
あった。


       香月泰男文集 「私のシベリア」筑摩叢書 より
NO 14  シベリア抑留後帰還した詩人石原吉郎 の言葉

* 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。
言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、
言葉の方がたえきれずに主体を離脱する。或いは主体を包む状況の
全体を離脱する。

* 「人間」はつねに加害者のなかから生まれる。被害者の中からは
生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、
人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。


内村剛介 「あさましいから美しいのだ」
「シベリア画集」香月泰男著  新潮社の巻末批評文より
NO 13 * 詩人は永遠の子どもである。・・・
・・・言葉の発生が似ている。詩人は意図的だが子どもは本能的直感的
にそれをする。 

                   与田準一 「詩と童話について」

* わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ ジャン・コクトー

* シャボン玉の中へは庭は入れません
   まわりをくるくる廻っています  

              ジャン・コクトー「シャボン玉」 堀口大学訳
NO 12   もうけっしてさびしくはない
  なんべんさびしくないといったところで
  またさびしくなるのはきまっている
  けれどもここはこれでいいのだ

 
  すべてさびしさと悲傷とを焚いて
  ひとは透明な軌道をすすむ 
  

                   「春と修羅」小岩井農場より 宮沢賢治

  ある星はわれのみひとり大空を
        うたがひ行くとなみだぐみたり


  病(いたつき)のゆえにも朽ちんいのちなり
        みのりに棄てばうれしからまし 
(絶筆)     宮沢賢治
NO 11 原子力開発によるデメリットは、誰を措いても原子力を推進している
国々こそが連帯して負うべきであって、間違っても原子力を選択して
いない国々に負わせるべきではない。

* 放射能で汚れた食べ物を私は食べたくない。日本の子供たちにも
食べさせたくない。しかし日本という国が少なくとも現在原子力を選択して
いる限り、日本人は自らの目の前に汚染した食糧を上らせて、
原子力を選択することの意味を十分に考えてみる責任がある。


  「放射能汚染の現実を超えて」より
  小出裕章著 京都大学原子炉実験所助教
NO 10    福島在住の詩人 和合亮一 「詩の礫」 徳間書店 より

 僕はあなたの心の中で言葉の前にすわりたいのです。
   あなたに僕の心の中で言葉の前にすわって欲しいのです。
   生きると覚悟した者、無念に死に行く者。
   たくさんの言葉が、心の中の瓦礫に紛れている。

 だから、あなた。大切なあなた。今この世界に生まれたことを、
  もっと恐れたほうがいい。だからこそ、もっと深く
  誰かを愛したほうがいい。・・・僕の大切なあなた。宇宙を、世界を、
  社会を、恋人を、恐れながらも、一つ一つ燃え上がるように、
  生きたほうがいい。無念に死に行く者たちのため。泣きながら、
  震えながら、喜びながら、燃えあがろう。

 しー、余震だ。何億もの馬が怒りながら、泣きながら地の下を
  駆け抜けていく。何を追っているのか。馬よ。世界の暗がりなのか、
  宇宙のひずみなのか、両親をなくした坊やの涙か。
  もういいじゃないか、追うな、馬よ。私たちはどんなに傷ついても
  、何億のたてがみを撫でよう。泣きながら撫でよう。優しく、優しく。

 誰もいない 福島 静かな雨の夜
   ああ 頭の後ろを風と大きな海が通り過ぎていった。
   心のいちばん悲しいところに、吹き止まない風と今がある。
   放射能が降っています。静かな静かな夜です。
 ・・・・・、明けない夜は無い。

NO 9  「チェルノブイリの森」 メアリー・マイシオ著 中尾ゆかり訳
  NHK出版・・・ 事故後20年の自然誌・・・ より

 小糠雨が降り 濡れた土のにおいがする
 つばめはきらりと光る音をたてて輪を描く
 
 夜には池の蛙が大合唱
 すももの木は枝いっぱいに白い花を咲かせる
 
 こまどりは燃えるように赤い羽根の衣をまとい
 針金の低い柵にとまって気まぐれな歌を口ずさむ

 戦争があったなんて誰も知らない
 やっと終ったところで どうでもよい
 
 人類が滅亡しても
 誰も心配しない 鳥も 木も

 春だって 夜明けに目覚めても
 私たちがいなくなったなんて ちっとも気づかないだろう

       セーラ・ティズデール
NO 8       大漁 
             金子みす
 
    朝焼小焼だ
    大漁だ大羽鰮の
    大漁だ

    浜は祭りの
    ようだけど
    海のなかでは
    何万の
    鰮のとむらい
    するだろ

 

      「童話」大正13年3月掲載 西條八十選
      * 鰮 いわし 
NO 7 野口雨情 「童心居雑話}より
      ・・・天與童心・・・・
 * 童心とは、先天的に賦与された人間性の最も正しき心、
無垢な心の意味である。 

 * カントは永遠の児童性といい、ルッソーは自然性といっている。
それが私の童心であるから、放縦な心や、野卑な心は童心ということはできない。

 * 童心は子供にのみ特有されるべき心ではなく、
吾々成人にもあるべき筈の心である。芸術のすべては、
この童心より発するものに永遠性があるのである。
科学の知識と童心とは全く別物である。

 * 童心は先天的な心であるが、時代が進むにつれて
変化すべきものと思う。その変化も千年や二千年の歳月によって
著しく変化すべきものとは思われない。

 * 私の安息所は童心居である。
NO 6     5月の詩  谷川俊太郎(5月2日朝日新聞夕刊)

      言葉
  
    何もかも失って
    言葉まで失ったが
    言葉は壊れなかった
    流されなかった
    ひとりひとりの心の底で

    言葉は発芽する
    瓦礫の下の大地から
    昔ながらの訛り
    走り書きの文字
    途切れがちな意味

    言い古された言葉が
    苦しみゆえに甦る
    哀しみゆえに深まる
    新たな意味へと
    沈黙に裏打ちされて

NO 5 ** 「サス」のサとは,「矢」とも同源と見られるもので、先のある棒状のもので
何かを貫くことをいう。サスことによって、いわゆる海幸・山幸のサチ(得物)もえられ、
また、サ月にサ苗を田にサセば稔りの秋が来るというように、「サス」とは太古から、
食や命の生産行為の源にある、神聖な動詞でもあった
  

  木村紀子著  「日本語の深層」平凡社新書 より
NO 4
 「詩とは何か」 吉本隆明より

* 詩とは何か。それは現実の社会で口に出せば、全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、書くという行為で口に出すことである。
* 古代の祭式が劇をうみ、詩をうみ、音楽をうみ、舞踊をうんだということは疑う余地はない。
* 詩のかなめには詩的喩があり、詩的喩は詩人の意識の自己表出力を励起状態に当てることの他ならない
。だが、おそろしいことに、言葉は自己表出された意識であるとともに、意識の実用化であり、詩の言葉もまた散文の言葉や語り言葉と同じように何ものかを意味してしまうのだ。・・・何が価値ある詩かという問題において、私たちがシュールレアリスムにも抽象主義にも重きをおきえないのはそのためである。
<なぜ書くか>
 彼が書くものは彼にとって書かないものの世界に拮抗する重量と契機を獲得しているか。そして、私の書くものは私にとっていかにして書かないものの世界に拮抗する重量と契機を獲得しているか?それが詩の価値基準である。
 わたしが想定している大衆の原型は、まさに耐えるという意識すらとうの以前に無意味になったところで、生活を繰り返している存在をさす。そしてこの存在に拮抗しうる書くという幻想の世界は、耐えるという意識を無価値化するところで持続される作業のほかに考えられない。
NO 3      やまと言葉では光そのものも影という
     日影 月影 星影 灯影 

     渾然と溶けあうそのひびき
     
     すべてのものは影を持つ
     それは 今世に在るということ
     かけがえのないもの という証だ
     かげをよび続ける声 ひかりは
     かならずや 言霊の力で蘇るだろう

     雲影が頭上を通りすぎていく
    「水神の森}より
     
     岡山晴彦詩集 「影の眼」より
NO 2
万有引力とは  引き合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる それ故みんなもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんな不安である

二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした


              
        谷川俊太郎 「二十億光年の孤独」 より 
2012
NO 1
* バッハホールのある町、宮城県中新田の某酒造会社では、酒の素である麹ができあがるまでのほぼ50時間、バッハのカンタータの数編を幾度も幾度も連続して聞かせる。縄文人のタマシイとバッハのタマシイが溶け合っている酒は、きっと世界一うまい、いや美しいだろうという。銘酒「バッハ」の誕生にわたしは強い拍手を送りたい。

 日本人の精神の、ひいては芸術のその源流は、紀元前の一万年の縄文である。そして、その歴史の底を貫いてきた伏流水の噴出の一つが六古窯である。(六古窯・・備前・丹波・越前・信楽・常滑・瀬戸)日本独自である。

* 大地の土と水と火で成形した壷の中には天が内蔵されている。
  壷中の天・・・中国の古語(後漢書)


  「伏流水日本美」 宗左近  より
2011
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